新宿雑記① ~どうして駅から遠いほうが一丁目?~
今回のコラムはマクソンジャパンがある新宿をご紹介します。
モータには全く関係のない話となりますので、ご了承ください。
マクソンジャパンは新宿5丁目にあり、最寄り駅は「新宿御苑前駅」か「新宿三丁目駅」で、それらからですと徒歩10分程度です。ターミナルの新宿駅からは歩いて20~25分程度とやや離れていますが、運動としては良い距離ですので、私を含めて新宿駅⇔会社を歩く社員も多いです。ただ昨今は訪日の観光客の方を含めて人が多く、朝は良いのですが、帰路の大通りは人波を縫うように歩かなければなりません。そのため社員それぞれで「歩きやすいルート」を持っているようです。
図)国土地理院地図を一部加工。m印の旗がマクソンジャパン
さて、上記地図を見ると、新宿駅に近いほうから「新宿(三)(緑色で彩色)」→「新宿(二)(青色で彩色)」→「新宿(一)(赤色で彩色)」となっています。
「どうして駅から遠いほうが一丁目?」と思われるかたもいらっしゃるかもしれませんが、これは新宿の成り立ちを見れば解ってきます。
新宿はその名の通り「新しい宿場町」です。地図上で新宿駅をまたぐ赤色の大きな道路は「甲州街道」です。江戸時代、甲州街道が整備された当初、最初の宿場町は「高井戸」でした。
ご存じのように五街道は日本橋が起点ですが、東京の地理に詳しい方であれば「日本橋から高井戸って遠くない?」と思われるかもしれません。日本橋 → 高井戸宿(正確には下高井戸宿)まで約4里(16km)となり、確かに休みなしで歩くにはちょっと遠いように思われます。
実際に他の街道で見てみると、
東海道、日本橋 → 品川宿が約8km。
中山道、日本橋 → 板橋宿が約10km
ですので、やはり高井戸宿は最初の宿場町としては遠かったようです。
こうしたことから、浅草の商人たちが 日本橋 → 高井戸の中間地点(日本橋から2里)の距離に宿場町開設を幕府に願い出て、上納金等を条件に開設が許可されたということです。
内藤家(高遠藩)の領地の一部が幕府に返上され、今の新宿御苑の北側に新しい宿場町、「内藤新宿」が作られました。内藤新宿の入口(下記地図赤丸)から、「内藤新宿下町」→「内藤新宿仲町」→「内藤新宿上町」 です。つまり内藤新宿の入口側から「新宿一丁目」→「新宿二丁目」→「新宿三丁目」となったわけです。
景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』内藤新宿千駄ヶ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館デジタルコレクション を一部加工
新宿一丁目交差点(四谷区民センター前、地図上の赤丸)より。
ここから約1kmが「内藤新宿」であり、両側に旅籠や茶屋など各種施設が並んでいたと思います。(ただ、当時の旅籠屋には裏の顔もあったようなのですが、その辺はまたの機会に。)奥(西側)に西新宿の高層ビル群が見えます。
四谷区民センターの敷地の一角に記念碑があります。
新宿一丁目交差点から約1km進むと、地図上で緑〇のところになり、伊勢丹百貨店の前ですが、ここは「新宿追分」という街道の分岐点です。ここから新宿駅方面(写真左上方向)にまっすぐ行けば「青梅街道」。左(写真、掃除のかたの方)に曲がれば「甲州街道」です。
今でも「追分」の名残を見ることができます。
ちなみに、この一角には京王電鉄系のビルが多くみられます。これはかつてここに京王線の始発駅、「新宿追分駅」があったことの名残りです。これについての詳しいこともまたの機会に。
つまり宿場町としての新宿は今の「四谷区民センター」から「伊勢丹新宿店」くらいまでで、新宿駅は‘かつての新宿’のかなり外れのほうに作られたことになります。これが駅から遠いほうから1丁目 → 2丁目 → 3丁目 の理由であり、現在とは動線(導線)が逆だったというわけです。関東大震災後、地盤の安定している東京西部への住み替えが注目され、西部へアクセスできる新宿駅が注目され、発展を遂げていったそうです。
マクソンジャパンにお越しの機会には、歴史探訪も是非お楽しみください。
(TAKA)